2008年2月22日 (金)

表現者と民衆―文化の形骸化―

 久しぶりにヨーロッパを訪れている。ロンドン、パリ、ローマを2泊づつ、一週間で味わい尽くそうという恐ろしい企画の参画者としてこの旅行に帯同している。
 冬のヨーロッパということで覚悟して、それなりの準備をしてきたのだが、今年に限っていえば、日本よりも暖かく、最初のロンドンとパリの1日目までは、天気も良かった。
 ローマはそうでもないが、ロンドンとパリは経済の良さが町の風情に如実に表れていて、豊かな落ち着きを示している。比較すればローマはそれには少し劣る様子で、道路の舗装状況、走っている車の種別や新しさ、それに町のゴミや落書きがそれを物語っている。
Dsc_1920  パリの二日目、我慢できる程度の雨が降ったのだが、それがかえって良かった。セーヌ川沿いに連なるルイ王朝からの遺産的建造物や、セーヌ川にかかる鉄の橋などは、雨によく似合う。中世的なアパルトメントの屋根の背後に、エッフェル塔がかすんで見えるのも情緒があって良い。
 以前から思っていたのだが、パリの町には鉄がよく似合う。セーヌ川に架かる橋、エッフェル塔、地上を走るメトロの高架橋など、19世紀~20世紀初頭に作られた鉄の建造物はエロティックで美しい。古いメトロ駅の入り口に時折見られるアールデコ調の鉄の飾り物はいただけないが、古い建造物の外側に設けられた鉄柵や入り口の鉄扉なども素晴らしい。
 時代のせいかもしれないが、現代ほど太い鉄が使われているわけではない。であるが故に、強度を生み出すため細い鉄が見事に幾何学的に組み合わされて、その合理的で分別のある模様が、鉄の時代背景と見事に調和しているように思う。また鉄は煉瓦やモルタルのように雨を吸い込まないから、雨模様の風景としても際だった力学的表現力を持っているように感じる。
 カルチェラタンにあるサルトルが通ったといわれているカフェ Les Deux Magotsで、道行く人を眺めながら、シャンパンとベルギー産のスモークサーモン、それにチーズの盛りつけを楽しんだ。目の前にサン・セヴラン教会が見えるこの界隈は、五月革命の時、ソルボンヌの学生がピケをはった地域だという。いまやそうした面影はなく、雨の中に輝く瀟洒な町として、パリ市民の愛する町並みの一つとなっている。
 ソルボンヌの学生にも、五月革命当寺の、あの強烈な学生の力の背景を理解するものはいないだろう。わたしたちの国でも、安保や三里塚の学生闘争を振り返ろうとする若者はいない。時代は変わったというより、忘れ去られたといった方が正確かもしれない。イデオロギーに貪著することを止めて、わたしたちの存在の根拠は、経済力、権力あるいは従属力であったりするようになった。
 そういえば、フランスではすでに1920年代にポピュラリスムなどという民衆文学があったようだ。存在は、その根拠を突き詰められていくと、そこからの逃避を試みようとするものだ。今では逃避の受け皿が大きく安全性が高いものだから、民衆はそこから再起することができなくなった。殊に、インテリにはその恩恵が大きいから、だれも民衆を啓蒙しようとはしなくなったが故に、今では彼らが再起するため出口はどこにも見いだすことができない。だれもが小金を稼いで、脱大衆的特権意識を持とうとしている。あるいはすでに持ち得たと妄想している。知識は、そうした意識の形成と妄想のために浪費されている。
 今回は団体旅行を成してやってきているので、結構な設備のホテルに泊まっている。フランスやイタリアでは、世界的遺産ともいいうる古い町の一角を改装してホテルが造られている。こうしたホテルでは近頃内装の模様替えがおこなわれて、いかにもデザインの国らしく、洒落た設備が整えられ、部屋に入った瞬間になるほどと得心させられるものだ。
 ところが、風呂に入ると、水をいっぱいに張っても肩まで湯にとっぷりと浸ることはできない。湯と水を調節する金具はおしゃれではあるが、人の神経を逆なでする妙な方向に動いて、使い手を苛立たせる。シャンプーやボディーソープの入れ物も、口紅風だったり、香水の小瓶風だったりして装飾性の高いものだが、たいていはうまく蓋が開かないし、シャンプーかボディーソープかを示す、肝心な部分の表示が消えかかっていたりしている。顔や手を洗うシンクは特にデザインに気を遣っている様子だが、ほとんどの場合、顔をあらうために必要な水が溜められない構造になっている。
 いったいデザインって何だ?何のためにあるのだ?フランスの鉄の文化の美しさは、その時代の鉄を都市に融和させるために、フランスのエスプリが機能した好例だったと思う。残念ながら現代のエスプリは、社会全体や民衆のためではなく、自己の顕示と満足のために働いている。芸術ならばそれでもいい。工業デザインや内装装飾はそれではまずいだろう。デザイン性という概念だけが、ほとんど目標のない時代の妄想的指標として孤立してしまったようだ。デザイン性が、モノ造りに何も要求せず、現場からのいかなる声も聞かないようでは文化は生まれない。形骸化した文化という腐った屍を生者に見立てているに過ぎない。
Dsc_2006  カルチェラタンからの帰路、セーヌ川沿をエッフェル塔まで歩いた。夜のエッフェル塔は、黄色いタングステン光でライトアップされ、繊細な鉄の編成と調和してひときわ美しくパリの闇に貫通している。しばらくエッフェル塔下のベンチに腰をおろして、歩き疲れた足を労りながら、その美しさに見惚れていた。
 夜9時、突然にエッフェル塔の鉄の背後に潜んでいた数百個のフラッシュがその光を点滅し始めた。驚くほどの密度と短い間隔で、目も痛むほどに青白い光が閃光を放つ。それはまるでエッフェル塔にとりついた宇宙からやってきた虫のように、その全容に貼り付いて浸食しているように思えた。しかもこの危険な時間は10分程も継続したのだ。
 1889年の万国博覧会のシンボルとして計画されたこの鉄の塔については、小説家モーパッサンをはじめとする47人の芸術家・知識人が連盟で建設反対の陳述書をパリ市役所に提出したといわれる。結果的に20世紀の産業の中核となる鉄の象徴として、時代を表す表現であったと回顧されるとしても、いまだ時代的価値の定まらない鉄の無骨な造形が、景観を破壊し、伝統を軽視するとの主張には、エリートとして文化に指導的に関わっていこうとする意欲と責任感が示されている。
 しかしこのエッフェイ塔の光の装飾については、それを批判する大きな潮流の存在を聞かない。パリのエリートたちは、いまや自分たちが所有している株価の動向や次の選挙のことしか念頭にないのだろうか。指導的役割を果たすべき責任主体が構造として失われてしまったから、デザイン性や文化意識といった妄想概念だけが暴走している。フランスのエスプリは(アメリカ的)グローバリズムに浸食され、その独特の力量を喪失してしまったように思える。国家としての経済規模は高まった。社会投資も十分行われるようになった。美術館や見本市会場、スタジアム等の設備は素晴らしい。しかし、パリノルド駅周辺に屯す怪しげな人間の数は減っていない。いずれにしても、醜いエッフェル塔の電飾がパリ文化の衰退を象徴している。過去の偉大さを現代に繋ぐ継承者が必要だ。

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2007年12月24日 (月)

進歩するということの持つ深い懊悩

 インドも随分変わった。特に今いるPuneという町は、教育設備が整っていて、知的水準が高かったので、IT産業の誘致に成功し、多いに変貌をとげている。いくらか豊かになった人々は、ファミリーレストランで食事をし、日曜には近郊の景勝地にピクニックに出かける。建物も新しく建て変わり、道路も広くなったり高架橋が架けられたりしている。
 Pune大学を中心にして多くのCollegeが集まっているこの町は、もともとインド的な猥雑さが少なく、洗練されていた。オートリキシャに行き先を告げると、さっさとメータを稼働させ、到着すればタリフを見ながら料金を請求する(タリフというのは、料金の換算表。メーター自身は古いもので更新していないので、メーター料金を現代の料金に読み替える必要がある。現在メーター読みの5倍にいくらか追加料金を払う程度)。こんな町はインドでは他に見当たらない。タクシーやリキシャを使うと、乗る前と降りるときに大抵は喧嘩腰になる。
 その分、あまり情感がないのも事実で、ここでは勉強はできるが、情緒を感じることは少ない。この町の人は、PuneをインドのOxfordと呼ぶことがあるが、Oxfordには、学問の背後にある怪しげな情緒が蠢いている。どれだけ近代化しても、学問の基底となっている哲学や宗教における人間的な困惑が拭えないでいるのだ。
 Puneでは相変らず大衆の信仰心は篤く、町の辻辻には祠があって、時を定めておこなわれるプージャには参詣者が集まる。ところが、彼らには、宗教と近代化が絡み合っている部分を問題にする意識はない。Pune大学やDecan Collegeには宗教学や哲学、それに言語学に対する深い伝統がある。そうした学問は決して軽視されている訳ではないのだが、それはそれ、これはこれと、随分あっさりした割り切りがあって、さっさとIT産業にコミットメントして、特別な情緒を残すことはしない。
 だからこの町には、古い建物が少ない。観光用に残された城跡などはあるが、お金さえあれば、さっさと古いものは壊して新しいものに置き換えていく。近頃のバブル景気のおかげで、あっと言う間に町の景観が変わってしまった。そしてジーンズにTシャツの若者がアメリカンなカフェに集う。
 なにしろ信仰心の篤いお国柄だから、IT関連の産業団地にも宗教施設は作られる。しかし、それは、ITと宗教は併存している、という割り切りのようなもので、あまり深刻になっている様子はない。財閥の主が功成ったあかつきに、巨大で華麗な寺院を造るようなものだ。そんなバブルの城のような寺にも、インドの信仰者は疑問をもたずに熱心に参拝するのだから、こうしたやり方はインドの精神的伝統かもしれない。彼らにとって信仰は生活の問題だから、情緒的な曖昧さは認められなのだろう。
Woman  先日、Puneの郊外24KmのところにあるSinhagadという古い城跡に行った。道が悪くて、タクシーで1時間以上の道のりだった。最後の7Kmくらいはひどく急坂な坂道で、タクシーは悲鳴をあげながら、ゆっくりと上った。この城はShivajiが1670年に勝ち取ってマラータ同盟の城の一つとしたものだが、だれもが登れないと思って、警護が手薄だった垂直にきりったった崖を、ロープとイグアナの力をかりて登りきったTanji Malusareの英雄的活躍によって開城されたものだという。
 日曜だったので、地元の観光客でにぎわっていた。城跡自体はあまり整備されている様子はなく、みなピクニック気分で、景観のよいこの城跡にやってくる。中には、小さなスクーターで、恋人と相乗りで登ってくる者もいる。彼らはオーバーヒート気味のスクーターをなだめすかすように、ノーヘルで登ってくるのだ。帰りはどうするのだろう。あのスクーターのブレーキ性能がそれほど信頼にたるものだとも思えない。
 小さな車に定員オーバーでやって来るもの、おばあさんを連れてきてしまい、結局城の入口のところで、1時間以上も待たせているもの、木陰にシートを広げて、ランチボックスを楽しむ家族。確かにわたしたちにもかつてこんな風景があった。父の運転するラビットのスクーターに母と子ども3人の5人乗りで母の実家に向かう途中、呼び止めた警官に呆れられた事を思いだす。この時分、ヘルメットなんて工事現場にしかなかった。核家族化していなかったあの頃、おじいさんやおばあさんを家に置いてこれなくて、海水浴場や遊園地に連れてきてしまい、結局ぼんやりと待たせているだけ、ということもあたりまえのようにあった。
Sukuta_2  インドは今、そんな高度成長のまっただ中にある。その過程で彼らはなにを失い、何を得るのだろうか。今のような遠慮のない楽しさというはそう長くは続かない。進歩に酔いしれてふと我に還ろうとした時、心の深い部分に大きな空洞を見つけることになって欲しくない。それはわたしたちが歩んできた道だ。これほど信仰深いのに、案外簡単に割り切ってしまうところに、その危惧を強く感じざるを得ない。一度できてしまった心の空隙は容易に埋まらないことをわたしたちは経験しているから。

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2006年9月 6日 (水)

オックスフォードの地下室

Windows_3 現在,イギリスのオックスフォードに一週間ほど逗留している.到着した時には,どんよりと雨模様で,煉瓦の壁に黒い染みができて,陰鬱な寒さだった.何しろ日本を出た日に,最高気温は33度だったのに,ここでは20度を切る.到着して,二日目くらいにようやく晴れ間が出て,暖かくなった.
 オックスフォードにいると,ずっしりとした歴史の重みを感じる.それはとても威圧的な重厚さで,学問の深遠に撓まれそうになる.とてもすてきな中世の趣をもった町だが,イギリスの中世には不気味な暗さがある.この町でどれほど多くの若者たちが苦悩し,絶望していったことだろう.そうした内面の葛藤はやがて彼らの活力を引きだし,多くの社会的業績に成果したのだった.しかし,本質的に解決することのない神秘的な苦悩に気づいたものも少なくはなかっただろう.あるいは文学に,あるいは芸術に,そして哲学に身を捧げた多数の魂は,その生存の期間に十分な解決をみることは無く,厚い壁に囲まれた陰鬱な闇の中で,苦しみつづけたのではないだろうか.この古い構造物の壁には,そうした真摯な探究者の怨念が染みついているようにも思える.
 わたしたちは,このような古くて威厳のある構造物に懐古的な情緒を感じる.まして,オックスフォードのように,それが現実に機能して役割を果たしている場合はなおさらである.わたしが滞在しているWadham Collegeには,夏休みともなると年代別に同窓の士が集まって,毎夜パーティを催しす.もやは人生を終えようとする老人たちが,若かった時代を懐かしんで集い,母校の変わらない姿に安堵し,落書きやわずかな構造物の破損のような自己の存在痕跡を見つけては,感慨に浸っている.それは,かすかな呼吸によって繋がれている自らの肉体の儚さを実感しつつ,永遠とも思える時間を表出する母校の構造物に不変を見いだそうとしているようにすら思える.
 しかし,真実として何一つ不変な現実などありはしない.内在的にそのことを知っているから,むしろ人間は,不変という幻想に頼ろうとするのではないだろうか.傾いた床や崩れかかった窓枠をどうにか修復して,儚い命がこの構造物を歴々と継承してきたのは,それでもここに永遠不変が実現されているのだと証ししつづける所作だったのではないか.その背景には,不変への希求を刹那な肉体に内在する人間の本質的な矛盾がある.ここでは,力と技術によってその矛盾が覆隱されようとしているし,それは一定の成果をもたらしてこの町の現代を成しているのだ.
 しかし,そうした成果とは裏腹に,素朴で真摯な探究者の苦悩の残像や怨念のようなものが,そこここに残されている.それは人間の矛盾隠匿の力学と対立しながら,この場所では常に敗者であった.完遂されたかった詩的な魂は,権力や構造力学によって,地下室の暗くて厚い壁の中に押し込まれている.ボードリアン・ライブラリーの複雑な地下書庫室には,数多くの不気味な伝説が残されている.救われることのなかった孤独な真人の魂が,そんな所に宿っているような気がする.
 いまイギリスは高度な経済的復調の過程にある.来るたびに車は高級になり,道行く人の服装も良くなった.驚くべきことにその恩恵は,例の恐ろしく無味単調な料理にまで及び,レストランやパブの食べ物が十分味わうに値するものになっている.
Newterm_1 いまや彼らは,地下室の救われない魂の存在を顧みることはない.それはわたしたちが歩んだ道でもある.グローバルなスタンダードは,人間の能力の無限性を信じ,不変の真理を現世に実現することを求めている.本当に人間は神をも超えたのか.救われない孤独な魂の苦悩は,もう地下室に留まるしかないのだろうか.それではあまりに悲しい.真摯に悩み続け,いまも苦悩しつづけている存在の純粋さを振り返ることのなくなった社会,わたしは,そのこと自体に不安を感じざるを得ないのである.

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2006年2月24日 (金)

いのちが見えない

(世事多忙を理由に,随分長くブログを掲載していません.この記事も,既に昨年末に書いたものですが,ほっておくとまだまだ時間が過ぎていきそうなので,とりあえず掲載します.)

cafe
 2004年12月26日スマトラ沖に発生した大地震は,インド洋を取り囲む複数の国の複数の地域に未曾有のTSUNAMIを惹起し,甚大な被害をもたらした.わたしはこの日,インドのプネーという街にいて,そのニュースに接した.ただし,インドでのTSUNAMI被害は,南部のタミルナドゥ州やアーンドラ・プラデーシュ州に集中しており,西インドに位置し,海岸線から離れた高地であるプネーは,マスコミの報道以外は平穏なものだった.
 それから一年.2005年の同じ日,わたしは同じ街の同じホテルにいた.新聞やテレビでは,この未曾有の大災害を回顧し,一年間の復興への経緯を検証し,問題点を議論する特集を組んでいた.近来,アメリカ的グローバリズムは世界の隅々に跋扈し,インドもまたその例外たりえない.結果として総括すれば,社会的に力量のある経済的富裕層は,以前にも増して富を得,貧困な底辺層は,益々困難な状況に追いやられている.同じような状況は,アメリカ・フロリダのハリケーン災害や,パキスタン・カシミールの大地震でもみられた.
 いまや人間のいのちの重みや,生きる権利に,社会は無頓着になっている.個々の尊厳よりも集団の利益をもとめる経済の暴走は,社会の都合に基づいて人間を正と負とに分断分別し,マクロ的に有益な正の存在のみを認め,負の存在を疎外する.そんな構造が赤裸になった一年だった.
 社会は何のために存在するのか.社会があって,個があるのではない.個の要求に応じて社会が構築されたはずである.しかし,一度それが成立すると,社会自体が意志を持つようになる.社会の意志には存在の深遠を訴求し続けるような根気はないから,“いのち”のように,「死すべきものとして生じる」矛盾性を許さない.
 単純な善悪が世界を支配している.そればかりか彼の意志は残酷である.社会にとって,不利益なもの,役にたたないものが台頭することを許さない.個々に目覚めて,社会と齟齬を感じはじめた異端分子を抹殺しようとするのである.政界や経済界のリーダーは,亡霊の支配者たる社会の僕となって,彼の代弁者であることを無意識に受容している.厄介なのは,僕に過ぎないものたちが尊大な自意識を持ってしまうことである.
pune 人間は,その本質的価値によって尊厳を問われることは稀れである.その人に付加する外的・社会的な要素に基づいて見事に組織的に区別されている.インドの悪しき伝統であるヴァルナ(一般にカーストと呼ばれる)制度は,いまやインドの特質ではない.世界は,アメリカ的経済優先主義の倫理概念によって,巨大なヴァルナを構成している.そのヴァルナ的区分は巧みに隠蔽されているだけに,インドの伝統的ヴァルナよりも罪は大きい.わたしたち個もまた,善悪,有無,正負を分明に解き明かす知恵をもって誇りとしている.自分自身の生きている意味を問い続け,死すべきものという人間の宿業にたった自己認識を受けとることができるものは少ない.
 しかし,よく考えてみよう.わたしの“いのち”には経験則が働かない.わたしは,初めての「生」を受け,初めての「死」に至る.また,わたしの“いのち”には,比較する対象がない.対比する何者かを持たないわたし自身の主体的な法則によって生じたものであるから.あらゆる社会的な正義と罪悪は,わたしの後に続いている.それはわたしが生み出した混迷にすぎず,そんなものがわたしの存在を分明するなどということはあり得ないのだ.わたしたちは,あり得ないものに支配されて,本来立つべき場所を亡霊に譲り渡してしまった.そして,亡霊に憑依された迷いのシャーマンを政治的・経済的指導者と仰いでいるのだ.
 死すべきものとして生まれてきた矛盾的本質に立ち帰ろう.その矛盾的な主体のみのわたしに立つことによって,ようやくわたしたちは“いのち”を学ぶべきものとなる.すべてはそこから始まるのだ.

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2005年7月18日 (月)

辺世から世界が観える

chitani  旧聞に属する話題だが,5月28日(2005年)に,知花昌一氏の歌と講演を聞いた.知花氏は,1987年10月,沖縄国体のソフトボール会場で,日の丸を焼却し,わずか3100円の器物損壊罪で,執行猶予付の懲役1年6ヶ月の刑を受けた人だ.今は民宿「何我舎」(ぬーがやー:沖縄県読谷村字波平174)を経営しつつ市会議員をされている.この企画は,三重県員弁市の真宗大谷派泉称寺の主催する「いなべ親鸞塾」によるもので,会場は泉称寺の本堂が当てられた.
 知花氏は,三線を持って登場し,同時に主催者からは,水ならぬビールが彼の目前に供された.日焼けした,沖縄育ちの,人の良い,中年男性風情の知花氏は,ビールを一飲みして,世相,恋愛,風景,戦争などを謳い込んだ島唄を,7曲ほど披露した.晴れた浅瀬の海岸を視ているような,穏やかで緩やかな時の流れ.それは,名古屋近郊の,無意味に忙しない時の流れとは,あきらかに異なった時間感覚だった.
 沖縄の空気感につつまれた会場で,知花氏は三線を置き,伏し目がちに,静かに沖縄の抱える問題を語り始めた.それは予想に反して,穏やかな口調で,彼は,決して過激な表現方法を採らなかった.しかし,一音一音の背後に,決然たる意識を伝える力のあることばだった.
 話は「沖縄戦から見えた日本の姿」というテーマから始まった.彼はまず,沖縄を日本の「辺境」と位置づける.「辺境」には,見せたくないもの,隠したいものが追いやられてくると前提し,しかし逆に,その弱点故に,その「辺境」から社会の本質が赤裸になると彼は主張するのだ.
 「辺」と「央」.この相対は,まさしく社会の歴史的な課題である.社会的構造を中心軸にすれば,「央」は「善」であり,「辺」は「悪」.「辺」を劣勢として「央」が優越する.しかし個個の人間という存在性に立脚するとき,わたしたちは存在の「辺境性」「辺地性」を,自らなる存在の中に見過ごしにすることはできず,そればかりか,時に,自己の内奥に潜む「辺」にこそ,存在の確かな本質を見いだすことが少なくない.
 なぜなら,わたしたちは存在として,この瞬間にしか自己を確認することのできない脆弱な存立意義しか持たないからである.この瞬間の前の時間,わたしたちはどれほど存在を明確に指示できるだろうか.慚愧の念によって忘れ去りたいもの,覚えていたくても忘れてしまったもののなんと多いことか.かつて通り過ぎてきた時間が,リアルな経験ではなく,まるで映像のようにしか顧みられないことは常である.もちろん前世のことは,詐欺師でもなければ堂々と説明できるはずもない.当然,まだ訪れていない,この瞬間の後の時間については,未知である.わたしたちの日常的能力には,これから後の時間を見通す神通力はない.
 ではわたしたちは通常どのようにして,自己確認をしているのか.わたしたちの人生の善悪を,また来るべき,先の人生の歩み方を,どのように判断しているのだろうか.こんなとき,わたしたちは,その時もっとも力ある社会的歴史的判断という方法論に依存している.これは自己の存在性の外側にある客観的な学的分別であって,すべての個たる自己の対象である.つまり,ただ対象として存在する客体的なもので,主体的な認識力を持たないものだ.しかし,それは,まるで認識主体のように,わたしたちの自我に働きかけ,命令し,善悪を教えるのである.わたしたちの自我が生み出した,無機質な法則.その存在は単なる幻影にすぎないのだが,実際には,その幻影こそが,「央」たる力学として,わたしたちの個我を支配している.わたしたちは,いつの間にか,わたしたち自身が生み出した幻影の僕となって,幻の法則(央)の「辺」として,自己存在が劣勢化してしまっているのだ.
 こうした仕組みは世の常だ.確かに社会は「構造」を持たねばならぬ.「構造」は常に「個」を圧服することによって力を持つ.必要悪としてそれは仕方のないことだ.しかし,「構造」は,常に作り替えられなくてはらない.通常,「央」たる幻の法則(構造)は優越して,「辺」たる個は劣勢に甘んじている.ただしそれは,「辺」が主体的な意味をもちながら,社会秩序のためにあえて幻の法則(構造)を優越させているのであり,いつでも「辺」が,優越する「央」を打ち崩す準備を整えていなくてはならないのだ.変化は「辺」からしか起こらない.真実は「辺」からしか求められることがない.なぜなら,「央」は,その性質上,自ら存立するものではなく,主体性を持たず,無知だからである.
 知花氏は,「沖縄戦から見えた日本の姿」というテーマから「辺境から日本がみえる」という真理を誘因し,それを「日の丸焼却から見えた日本の姿」「米軍基地問題から見えた日本の姿」と具体的に展開し,最後に「封建時代の遺物を払拭しよう」というテーマで講演を締めくくった.彼は,日本を「世界で最も表現できる国の一つでありながら,黙して語らない民衆=サイレントマジョリティの国」と考える.わたしは,「封建主義」を「個がその本質を喪失した構造」=「幻の法則たる「央」が主体化した亡霊の社会」と理解した.
 わたしたちは長期にわたる歴史的な努力と,その努力に相応しい成功を手に入れた.しかし,その過程の中で失ったのは,「辺境」である.「辺境」の克服は決して進歩ではない.なぜなら,わたしたちが服従している「央」こそが巨大な亡霊であって,それがわたしたちの主体の機能する場である「辺」を,むしろ意図的に隠蔽しているからである.「辺」がその本来の主体的な力を回復して「央」を必要に応じて変異させること.そうした事態の連続性こそが歴史であり,健全な社会を創出する方法論となろう.つまり,「辺」から世界を観る視点は,決して失われてはならないのである.

taketomi

武富島の風景

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2005年5月24日 (火)

撮影主義が帰ってくる

wisemanintirthi 近ごろKONICA MINOLTAのDimage Scan Elite 5400 IIというフィルムスキャナーを購入した.いまさらフィルムスキャナーかと想われる方も多かろう.古い写真が大量にスライドボックスに入っているのだが,デジタルカメラを使い出して,映像データがデジタル化してしまうと,アナログデータを持ち出してプレゼンテーションしたり,作品加工したりするのが,億劫になってしまった.結局死蔵されることになったこの財産を,何とかデジタルベースで再利用したいと考えたのが表向きの理由.もう一つは,この頃,デジタルカメラにも倦んできて,アナログなフィルムカメラが懐かしくなってきたからである.
 結果は,概ね良好.今回掲載する写真は,1980年暮から81年の年始にかけて南インドを訪ねた時のもので,すでに四半世紀前のものである.筆者がカラーポジを使い始めた最初の頃で,インド旅行は,これが3回目だった.撮影技術の未熟さや,ポジの退色は十分カバーしきれていないし,当時使っていたCanon A-1に付けられていたレンズは,FDレンズの汎用品で,近ごろの高度なコンピュータ設計と,繊細な工作技術で作られたレンズに比べれば,シャープネスもカラーバランスも,その差は歴然としている.当時でもLレンズを買えばそれなりだっただろうが,貧乏な頃故,購入対象に考えたことすらなかった.
twilightincochin しかし,作品そのものの味わいと力とは,十分に受容できるものだ.わたしたちは,デジタル化によって,便利になったとか,作業効率が上がったとか,質的な向上があったと,無批判に思い込んでいる.しかし,アナログな銀塩写真は,軽視に値する程,不効率なものだったのだろうか.古いスライドをスキャンして,多少のレタッチを施してプリントアウトしてみる.その写真を観察しながら,筆者はこの25年間に,何がどれほど進歩したのか(機材と撮影者という自分自身を含めて)という疑問が湧いてきた.
 作業効率というのはどんな概念なんだろう.単に,一つの事を成し終えて結果を出すまでの時間だけなら,確かに作業効率は上がったと言えよう.しかし,わたしたち人間には,受け入れ可能な時間力というものがあるのではないだろうか.そのプロセスの一つ一つを確認しながら,また迷いながら,結論に収斂させていく最も適度な時間,それこそが真の作業効率というべきものではないか.今の効率化は,少なくとも筆者の時間力を超えていて,よい結果が出たとすれば,それは自分の意図によるものではなく,環境が生み出した偶然の産物でしかないのだ.偶然に確実に良い結論に出会えるように,わたしたちは大量の作品を用意し,選択の幅員を広げようとする.その結果,良いものが得られると同時に,大量の無駄が廃棄されていくのだ.
 カメラ機材をデジタルに切り替えてすでに4年程が経つ.その間,日進月歩のデジタル技術の進捗に合わせて,大量の機材を売り買いしてきた.古いレンズが使えることが売り文句の大手メーカーのデジタル一眼レフも,撮像素子の大きさが35mmフィルムより小さいことによる画角の違いや,デジタルが要求する繊細な描画性能に合わせて,結局はデジタル専用レンズを買わざるを得なくなった.
 それに,デジタルデータを加工するためのコンピュータも同様に変化が激しく,新しい高度なソフトを使うためには,それに見合った最新のシステムに買い替える必要がある.プリンターの技術革新もすさまじいもので,古いものはインクや使える紙が無くなってしまうので,買い替えが必要になる.
familyinbubhanes これだけ機材の置換が激しくなると,材質の質感は大いに低下する.1年程しか使わない使い捨て機材に,余分なお金をかける必要などないからだ.中には,「作品主義なんだから,作品を生み出すための機材に執着するなんてのはばかげたことだ」という者もいる.でも,いくら性能がよくなっても,筆者は使い捨てカメラや携帯電話のおまけカメラは使わない.軽量なプラスティックや紙で出来たカメラ,カメラとしての本性を失ったカメラを構えていると,悲しくなってくる.写真を観賞したり,その写真によって想い出を語ることがあっても,「写真を撮る」という行為そのものは無化されて,顧慮されることがなくなってしまうからだ.
 皮肉なことだが,アナログをデジタルに加工するデジタル技術(フィルムスキャナー)を得て,アナログ写真への回帰が可能になった.フィルムはデジタルの撮像素子ほど融通の利かない要求はしないから,古くて個性的なレンズが十分に通用する.また,近年のコンピュータ解析技術によって高度に計算されたズームレンズではなく,職人が人間の勘をフル活用して作った,単焦点レンズという無理のない合理的なレンズも豊富だ.レンズとマウントのぶつかる金属の音や,布幕のアナログシャッターが醸し出す穏やかな響き.それに,固くて精度の高い冷たいボディーの感触を,もう一度楽しめそうだ.
 人間は,経済的な効率に裏付けられた結果ではなく,考察し,悩み,判断する過程に生きている.流れ留まることのない時間軸の中で,それでも一瞬に執着し,その輝きを夢見るのが人間の常であろう.むしろ,何の思慮もなく生み出された大量の無駄という結果をこそ畏怖するのが,正常な精神性なのではないだろうか.
 今や人間の尊厳は,悲しい程に等閑視されている.人間は輝く必要はない.物理的な結果の良否こそが大切にされるのである.もう一度人間を取り戻すために,わたしはシャッターを押さなくてはならない.作品を利用するのではなく,作品を生み出す楽しみ,撮影主義が帰ってくる.
cochinbackyard
*最初の写真:ティルティラパリの寺院にいた賢人風の老人(1980年12月)
*二枚目の写真:ケープコモリンの海岸のドリンクバー(1981年1月)
*三枚目の写真:ブバネーシュワルの海岸で海を見つめる家族(1980年12月)
*四枚目の写真:コチンの裏通(1981年1月)

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2005年5月16日 (月)

綾戸智絵というカオス

PC260390  2005年5月14日(土).愛知県芸術劇場大ホールで行われた,綾戸智絵のConcert 2005に行ってきた.13,14,15の三日間,愛知県芸術劇場の一番大きな会場で行われたこのコンサートのチケットは,Sold Out.綾戸人気の大きさを物語っていた.
 コンサートは6時に開演.最初の二曲は,ジャズのコンサートらしく,質素でハイセンスな照明が施されたステージに,グランドピアノを置いただけのそっけない演出で,じっくり聴かせる仕組みだった.
 ところが,二曲を終えて,ピアノ椅子から綾戸が立ち上がるや,会場のムードは一変した.それはまるで漫談か軽妙なトークショーを聴いているようで,会場のわたしたちは腹を抱えて笑い転げることになった.その勢いは尋常なものではなく,息苦しくて痙攣しそうになった.
 しかし,話の内容は,決して浮薄なものではない.わたしは,時に,哲学者や宗教家の話を聴いているような錯覚に落ちた.さらに,話を終えて,一度,ピアノの前に座ると,彼女は見事なジャズピアニスト,ジャズシンガーに変身するのだった.
 ジャズという一件日本人の精神性からは遠い音楽,高度な演奏技術,渡米の経験,死につながる病の克服といった現実と,あの大阪のオバチャンのような話し口や精神性.この人の内と外はどうやってバランスをとっているのだろう.どこに綾戸のアイデンティティーを見ればいいのだろう.わたしたちが,ステレオタイプな視点で感じている,アメリカ帰りのジャズミュージシャンはそこにはいない.だが,そこに存在する,どうみても大阪のオバチャンでしかない女性は,まぎれもなく一流のジャズアーティストなのである.
 もともとジャズは,故国を失ってアメリカに連れてこられた奴隷たちが,解放の後に,苦しい生活の中で,自由な表現方法を求めて生み出した音楽だという.それは,貴族やインテリのスノビッシュな仕業ではないのだ.単身渡米し,結婚・出産・離婚,そして病気と,いくつもの山溪を通り抜けてきた大阪のオバチャンにこそ相応しい音楽であったに違いない.Concert 2005では,誰もが知っている有名な楽曲が演奏されたが,実際には,誰も経験したことのない音の響きが,ホールに漂っていた.ひょっとするとそれは,綾戸自身,初めて出遭った音であったかもしれない.
 コンサートの後半で,綾戸は家族のことを語った.大正生まれのお母さん,昭和生まれの綾戸,そして平成生まれの息子の三世代が暮らす家に,近ごろ共通の話題ができたという.世代の異なるばらばらの関係性に通底する共通のテーマによって,彼らは食卓に集う時間を楽しみにするようになった,と綾戸はうれしそうに話す.
 しばらく間があった.
 「その話題はね,葬式のことなんですよ」
オーディエンスはちょっと呆気にとられている.そこで,綾戸は例の軽妙な語り口で,80を越える母親がその一番身近な話題の対象であり,彼女の葬式の方法が主たるテーマになっていること.しかし,しばしば母親が,そうはいっても,一番最初に葬式を迎えるのは,綾戸や孫であるかもしれないと切り返してくるエピソードを披露した.そして最後に綾戸はこんなふうに締めくくった.
 「葬式の話ができるのは,みんな生きているからなんですね.死について考えると生きていることが分かってくる」
 彼女は,「死」が全てを根源的に解決するその瞬間まで,ただ一人の「わたし」として生き,歌い続けるのだろう.どこに停泊することもなく,立派な栖を創ることもなく,その存在はカオスであり続ける.カオスこそが自由を保障し,彼女がジャズミュージシャンであることを証ししているように想えた.
 だれにも教えてもらえない,経験則の働かないただ一度の人生を,安易に模造することなく,正体の定まらないただ一人の「わたし」として生きている小さな体の女性.綾戸の立ち姿は,本当に凛として,美しかった.

*コンサートの写真を撮ることはできません.また,綾戸さんの肖像を勝手に使うわけにはいかないので,今回の写真はインドのものです.どうしてこの話題にインドの写真かといえば,「カオス」繋がりです.ちょっと安易でしたでしょうか.
 この写真は,2005年12月にインドのPuneで撮りました.Pujaの夜に,街の中心にやってきた若い家族の風景です.

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2005年5月 2日 (月)

「詐欺フェスタぎふ2005」に行ってきた

hanafesta01 黄金週間の混雑の中,よせばよいのに,岐阜県可児市で開催中の「花フェスタ岐阜2005」に行ってきた.この催しは,1990年から始まった「花の都ぎふ」運動の15周年を記念して,「花フェスタ記念公園」で104日間にわたって,開催されているものだ.(そもそも,1995年に「花フェスタ」が開催されており,その縁で「花フェスタ記念公園」と名乗っているのに,そこでまた「花フェスタ」が行われるというのは,構造的に矛盾している.しかもこの「花フェスタ」は,2004年にも開かれていて,近ごろ定例化してきている)
 さて,道路公団の改革が厳しく叫ばれる中,どこ吹く風で.近ごろ華々しく開通した東海環状自動車道(この道は,この周辺では「MAGロード」と呼ばれている.三重(M),愛知(A),岐阜(G)をやがては環状に結ぶ予定なので,MAGなんだそうだ)を使って,「可児・御嵩インター」を降りる.
 このあたりからいらいらが始まる.高速料金支払用ブースは三つ,その内,真ん中の一つはETC専用.このあたりではETCの普及率は低く,ここを通過する車はほとんど無い.まだ開園までには30分以上ある9時前だというのに,残った二つの料金所の前には,支払い待ちの車が長蛇の列をなしている.近ごろ,ETCを早く導入しろといわんばかりに,料金所のお金のやり取りがやたらと遅くなったように思う.一万円でおつりでも貰おうものなら,下手をすれば,カーステレオの音楽が1曲終わりそうになる.ETCの普及がおぼつかないのは,道路公団の志しの低さに起因する.だいたい,どこの世界に,支払者がレジ機器を購入するなんて法則が通用するんだろう.最近あまりの評判の悪さに,導入コストと,導入後の支払い値引きを始めたが,そもそも,あんなに大袈裟な三菱製の機械を,膨大な金をかけて全国にばらまく必要があったのだろうか.シンガポールやニューヨークではもっとスマートにやっているのに.
 ようやく料金所を通過して,会場に向かうと,途中で道を遮られ「センゾー駐車場」という砂利でできた,いかにも仮設の駐車場に誘導された.わたしは誘導者に「会場の駐車場には入れないのか」と尋ねたが,初老の警備服を着た男は,「満車だ」と明確に答えた.実際には,そこからシャトルバスで会場に着くと,まだ記念公園の駐車場には十分空席があり,駐車場に入るのに,特に混雑している様子もなかった.早い話がだまされたわけだ.hanafesta02
 さて,バスを降りたらすぐにしなくてはならないことがある.今回この公園に,混雑が予想される時期にやってきた最大の理由は,会場内の「プリンセスホール雅」で午前午後に二回おこなわれるNHKのわくわくさんの「つくってあそぼうショー」を子供たちが見たいというからだ.開園前に到着しようと試みたのは,800人収容のこのホールへの入場整理券を獲得するためだった.バスを降りて案内マイクの聞こえる方に走ったが,どうやら寸でのところで入場整理券は無くなったらしい.これではここに来た意味がない.そもそも駐車場の誘導員にだまされなければ,もっと早く会場に来れただろうし,その前の料金所がもう少しテキパキと仕事をこなしてくれていたら,状況が変わってきたかもしれない.
 わたしはばかばかしくなって,会場に入ることを止めて帰ることを家族に提案した(ちなみに前売券を買って来ている)が,子供はどうしても見たいという.しかし彼らには,整理券がすでに無いことを理解させなくてはならない.(実際には,会場には結構な数の空席があった.それでもわたしたちは会場に入れてもらえなかった.どうも整理券の配付方法自体,不可解だ.)そんなわけで議論をしていると,ボランティア係員が,「そこに立ち止まらないで先に行って」と無情な言い口.わたしたちは特に通行を妨げていたわけではないし,その場所はそもそも入場前に切符を買ったり,人と待ち合わせをする所である.ここのスタッフは,やって来た人たちがどんな状況を抱え,何に困っているかをフレキシブルに理解するホスピタリティにかける.数だけはやたらと多い係員は,迷子案内と立ち入り禁止区域への立ち入りの制止,それに,道案内,といった,マニュアルにある仕事を,強引にマニュアル通りに行うことしか念頭にない.
  仕方なく,子供には会場の外からショーの様子を眺めることを納得させ,せめて花を楽しもうと中に入った.するとどうしたことだ.「花フェスタ」なのに花が無いのだ.この公園の売り物は薔薇園なのだが,薔薇は5月下旬(ちなみにこのフェスタは,3月1日に始まっていて,6月12日には終わる)にならないと咲かないのだという.薔薇園には驚くほど薔薇がない.時期が来れば,薔薇が,イギリス庭園風に飾られるだろうことを思わせる鉄製のアーチや,階段や廊下まわりの木の柵は,見事に剥き出しになっていて,茎さえ見当たらないありさまなのだ.来場者は,後2週間すれば,ここに美しい薔薇の花が持ち込まれ,みごとな彩りの薔薇園ができ上がることを空想して楽しむしか手は無い.それでも,わたしよりは遥かに心優しい彼らは,「これだけの広さの所に薔薇が咲き乱れたらさぞ美しいでしょうね.もう少し後に来なくてはいけなかったわね」などと,しかるべき時節に来なかった自分たちを戒めるのだ.
 いま咲いているものといえば,通路脇に街路花として咲かせてあるレンゲやパンジー程度のもの.たまにきれいな花壇があったりすると,それは協賛している農業高校や地元の銀行や企業の労作であって,花フェスタ主催者の努力によるものではない.(水撒き以外,この会場で草木の手入れをしている人を見かけないのが不思議だ)hanafesta03
 この会場で力が入っているのは,地元特産の食品の販売.飛騨牛のコロッケや高山ラーメン,イワナの塩焼きなどを売る店が軒をつらね,それでも昼食時には,キャパを越えて入れ込み過ぎた観客が長蛇の列をなすありさまだ.花より団子を地でいくこの行事,「花の都ぎふ」はいったいどこへ行ったんだ.これなら,無料で入れる「木曽三川公園」(岐阜県海津市)の花畑の方がよほど素晴らしい.木曾三川公園の「チューリップ祭」の時には,スタッフは本当に努力して,期間中びっしりとチューリップを咲かせ,維持している.
 「花フェスタぎふ2005」のHPには,「「花」に関する取り組みが盛んな岐阜県のさまざまな魅力が詰まっています」と説明されているが,「「花」に関する取り組み」はすっかり忘れられ,「岐阜県のさまざまな魅力」が拡大解釈されて,種々のイベント事に執心しているように思えた.
 近ごろ,なんでも「イベント化」してしまう傾向がある.催しものは,観客の入れ込み数でしかその成否を判断しないし,来客も,「イベント化」に慣れきってしまい,「主旨」や「目的」よりも「イベント」の魅力にしか反応しなくなっている.わたしは大学に職を得ているが,学生の主催する学園祭もいまやイベント化の傾向が著しい.実行委員会は,プロモーターの持ち込んでくる,学園祭向けのコンサート企画を買い取るだけで,自分たちの大学の学園祭の「意図」を議論したり,その内容を企画に反映させたりすることが少なくなった.心のこもらない空疎な企画だけが独り歩きして,評価は,観客数という数量によって判断される.人間は,みずから「意図」を持ち,「企画」し,「実践」するものであることをすっかり忘れてしまったようだ.
 いずれにしても,「花」をテーマにしながら,「花」のない「花フェスタぎふ2005」は「詐欺フェスタぎふ2005」と呼ばざるを得ない.テーマに相応しい表現方法や,観客へのホスピタリティを,もっと率直に正直に探求すべきではないだろうか.

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2005年4月26日 (火)

牡丹

P4251658 いつのまにか牡丹の季節になっていた.この牡丹という花,原産は中国で,彼の国では「花王」と称するらしい.
 この花は当初薬用だったようだが,唐代以降観賞用となり,日本に伝わった.観賞用としてみれば,「花王」というのは,まことに絶妙な呼称である.大柄なのに,優美で繊細,しっとりとした潤いを持って,静かに佇んでいる.
 父が好んでこの花を庭にいけたために,庭にはさまざまな色の牡丹が咲いている.写真は,父の自慢の牡丹で,かなり古い株である.きつ過ぎず,さりとて,薄過ぎることもない,不思議な薄紅色をしている.「こんな牡丹は日本にいくつもない」というのが父の常の口上だが,そういって確かめてみたらたいしたものではなかった壺や掛け軸が家には結構ある.専門家に見立ててもらわないで,個人で楽しむのが良.
 問題は,花の季節が短いことだ.一年の半分は青い葉,さらに半分は,ほとんど枯れ木状態.本当に楽しめる時間は,年間2週間程度のものである.花は大きいわりに,花弁が繊細で,少しの老化で,形が崩れ始める.花の季節の後半は,むしろ見窄らしさを感じる.
 美しさというのは,瞬間の存在であって,頂点は時間を持たない.刻々と変化する流れのなかで,目に見えぬ一瞬を待って慶びを獲る.しかし,次の瞬間に,わたしたちは無常なる存在が残す喪失感に嘖まれる.慶びは,かつて存在したように思える微かな感傷に過ぎず,実在は常に,悔恨と悲嘆の対象でしかない.美の探求は,敢えない願いであるが,空虚な希望という絶望の中で,それでもわたしたちは,その一瞬を待ちわびている.

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2005年4月25日 (月)

悲しい日曜日

carpark 日曜日.子供たちは妻といっしょに実家に帰っているが,わたしは寺の仕事があって休む時間はなかった.仕事の帰り,パチンコ屋の前を通りかかって,異様な光景を見た.SUVやWagon車が列をなして駐車場に止められているのだ.家族でパチンコというのは,あまり一般的なシチュエーションではない.おそらく,お父さん方が,一人であの大きな空間をもてあますように,ここにやって来たのだろう.
 通勤時間に感じるのは,こうした前方視界を遮るような車の多さだ.大抵はあくびをしながら一人で運転しておられる.はっきり言って,道路を占有する面積は無駄そのもので,こうした車が全部小型車や軽に置き換わったなら,渋滞も少しは解消されるのではないだろうか.
 必要な時に適切に使われる限りはこうした車を否定しないが,はたしてSUVや大型Wagon車が,本来の目的で使われている時間は,その車の生涯時間の何パーセントあるのだろう.「家族像」や「友人像」といった幻想によって選択された車.描いた幸福な時間が実現できないで,ただ一人日曜日にパチンコ屋に来るためにこうした車に乗らなくてはならない現実を,オーナーはどのように受け止めているのだろう.

 八年前,長女が生まれる前に書いた「反家族主義」というエッセイがある.すこし尖った文章だが,久しぶりに読み返して懐かしかった.興味がある人は,ダウンロードして読んでみてください.

「anti-familyism.pdf」をダウンロード

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