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2007年12月24日 (月)

進歩するということの持つ深い懊悩

 インドも随分変わった。特に今いるPuneという町は、教育設備が整っていて、知的水準が高かったので、IT産業の誘致に成功し、多いに変貌をとげている。いくらか豊かになった人々は、ファミリーレストランで食事をし、日曜には近郊の景勝地にピクニックに出かける。建物も新しく建て変わり、道路も広くなったり高架橋が架けられたりしている。
 Pune大学を中心にして多くのCollegeが集まっているこの町は、もともとインド的な猥雑さが少なく、洗練されていた。オートリキシャに行き先を告げると、さっさとメータを稼働させ、到着すればタリフを見ながら料金を請求する(タリフというのは、料金の換算表。メーター自身は古いもので更新していないので、メーター料金を現代の料金に読み替える必要がある。現在メーター読みの5倍にいくらか追加料金を払う程度)。こんな町はインドでは他に見当たらない。タクシーやリキシャを使うと、乗る前と降りるときに大抵は喧嘩腰になる。
 その分、あまり情感がないのも事実で、ここでは勉強はできるが、情緒を感じることは少ない。この町の人は、PuneをインドのOxfordと呼ぶことがあるが、Oxfordには、学問の背後にある怪しげな情緒が蠢いている。どれだけ近代化しても、学問の基底となっている哲学や宗教における人間的な困惑が拭えないでいるのだ。
 Puneでは相変らず大衆の信仰心は篤く、町の辻辻には祠があって、時を定めておこなわれるプージャには参詣者が集まる。ところが、彼らには、宗教と近代化が絡み合っている部分を問題にする意識はない。Pune大学やDecan Collegeには宗教学や哲学、それに言語学に対する深い伝統がある。そうした学問は決して軽視されている訳ではないのだが、それはそれ、これはこれと、随分あっさりした割り切りがあって、さっさとIT産業にコミットメントして、特別な情緒を残すことはしない。
 だからこの町には、古い建物が少ない。観光用に残された城跡などはあるが、お金さえあれば、さっさと古いものは壊して新しいものに置き換えていく。近頃のバブル景気のおかげで、あっと言う間に町の景観が変わってしまった。そしてジーンズにTシャツの若者がアメリカンなカフェに集う。
 なにしろ信仰心の篤いお国柄だから、IT関連の産業団地にも宗教施設は作られる。しかし、それは、ITと宗教は併存している、という割り切りのようなもので、あまり深刻になっている様子はない。財閥の主が功成ったあかつきに、巨大で華麗な寺院を造るようなものだ。そんなバブルの城のような寺にも、インドの信仰者は疑問をもたずに熱心に参拝するのだから、こうしたやり方はインドの精神的伝統かもしれない。彼らにとって信仰は生活の問題だから、情緒的な曖昧さは認められなのだろう。
Woman  先日、Puneの郊外24KmのところにあるSinhagadという古い城跡に行った。道が悪くて、タクシーで1時間以上の道のりだった。最後の7Kmくらいはひどく急坂な坂道で、タクシーは悲鳴をあげながら、ゆっくりと上った。この城はShivajiが1670年に勝ち取ってマラータ同盟の城の一つとしたものだが、だれもが登れないと思って、警護が手薄だった垂直にきりったった崖を、ロープとイグアナの力をかりて登りきったTanji Malusareの英雄的活躍によって開城されたものだという。
 日曜だったので、地元の観光客でにぎわっていた。城跡自体はあまり整備されている様子はなく、みなピクニック気分で、景観のよいこの城跡にやってくる。中には、小さなスクーターで、恋人と相乗りで登ってくる者もいる。彼らはオーバーヒート気味のスクーターをなだめすかすように、ノーヘルで登ってくるのだ。帰りはどうするのだろう。あのスクーターのブレーキ性能がそれほど信頼にたるものだとも思えない。
 小さな車に定員オーバーでやって来るもの、おばあさんを連れてきてしまい、結局城の入口のところで、1時間以上も待たせているもの、木陰にシートを広げて、ランチボックスを楽しむ家族。確かにわたしたちにもかつてこんな風景があった。父の運転するラビットのスクーターに母と子ども3人の5人乗りで母の実家に向かう途中、呼び止めた警官に呆れられた事を思いだす。この時分、ヘルメットなんて工事現場にしかなかった。核家族化していなかったあの頃、おじいさんやおばあさんを家に置いてこれなくて、海水浴場や遊園地に連れてきてしまい、結局ぼんやりと待たせているだけ、ということもあたりまえのようにあった。
Sukuta_2  インドは今、そんな高度成長のまっただ中にある。その過程で彼らはなにを失い、何を得るのだろうか。今のような遠慮のない楽しさというはそう長くは続かない。進歩に酔いしれてふと我に還ろうとした時、心の深い部分に大きな空洞を見つけることになって欲しくない。それはわたしたちが歩んできた道だ。これほど信仰深いのに、案外簡単に割り切ってしまうところに、その危惧を強く感じざるを得ない。一度できてしまった心の空隙は容易に埋まらないことをわたしたちは経験しているから。

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