いのちが見えない
(世事多忙を理由に,随分長くブログを掲載していません.この記事も,既に昨年末に書いたものですが,ほっておくとまだまだ時間が過ぎていきそうなので,とりあえず掲載します.)
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2004年12月26日スマトラ沖に発生した大地震は,インド洋を取り囲む複数の国の複数の地域に未曾有のTSUNAMIを惹起し,甚大な被害をもたらした.わたしはこの日,インドのプネーという街にいて,そのニュースに接した.ただし,インドでのTSUNAMI被害は,南部のタミルナドゥ州やアーンドラ・プラデーシュ州に集中しており,西インドに位置し,海岸線から離れた高地であるプネーは,マスコミの報道以外は平穏なものだった.
それから一年.2005年の同じ日,わたしは同じ街の同じホテルにいた.新聞やテレビでは,この未曾有の大災害を回顧し,一年間の復興への経緯を検証し,問題点を議論する特集を組んでいた.近来,アメリカ的グローバリズムは世界の隅々に跋扈し,インドもまたその例外たりえない.結果として総括すれば,社会的に力量のある経済的富裕層は,以前にも増して富を得,貧困な底辺層は,益々困難な状況に追いやられている.同じような状況は,アメリカ・フロリダのハリケーン災害や,パキスタン・カシミールの大地震でもみられた.
いまや人間のいのちの重みや,生きる権利に,社会は無頓着になっている.個々の尊厳よりも集団の利益をもとめる経済の暴走は,社会の都合に基づいて人間を正と負とに分断分別し,マクロ的に有益な正の存在のみを認め,負の存在を疎外する.そんな構造が赤裸になった一年だった.
社会は何のために存在するのか.社会があって,個があるのではない.個の要求に応じて社会が構築されたはずである.しかし,一度それが成立すると,社会自体が意志を持つようになる.社会の意志には存在の深遠を訴求し続けるような根気はないから,“いのち”のように,「死すべきものとして生じる」矛盾性を許さない.
単純な善悪が世界を支配している.そればかりか彼の意志は残酷である.社会にとって,不利益なもの,役にたたないものが台頭することを許さない.個々に目覚めて,社会と齟齬を感じはじめた異端分子を抹殺しようとするのである.政界や経済界のリーダーは,亡霊の支配者たる社会の僕となって,彼の代弁者であることを無意識に受容している.厄介なのは,僕に過ぎないものたちが尊大な自意識を持ってしまうことである.
人間は,その本質的価値によって尊厳を問われることは稀れである.その人に付加する外的・社会的な要素に基づいて見事に組織的に区別されている.インドの悪しき伝統であるヴァルナ(一般にカーストと呼ばれる)制度は,いまやインドの特質ではない.世界は,アメリカ的経済優先主義の倫理概念によって,巨大なヴァルナを構成している.そのヴァルナ的区分は巧みに隠蔽されているだけに,インドの伝統的ヴァルナよりも罪は大きい.わたしたち個もまた,善悪,有無,正負を分明に解き明かす知恵をもって誇りとしている.自分自身の生きている意味を問い続け,死すべきものという人間の宿業にたった自己認識を受けとることができるものは少ない.
しかし,よく考えてみよう.わたしの“いのち”には経験則が働かない.わたしは,初めての「生」を受け,初めての「死」に至る.また,わたしの“いのち”には,比較する対象がない.対比する何者かを持たないわたし自身の主体的な法則によって生じたものであるから.あらゆる社会的な正義と罪悪は,わたしの後に続いている.それはわたしが生み出した混迷にすぎず,そんなものがわたしの存在を分明するなどということはあり得ないのだ.わたしたちは,あり得ないものに支配されて,本来立つべき場所を亡霊に譲り渡してしまった.そして,亡霊に憑依された迷いのシャーマンを政治的・経済的指導者と仰いでいるのだ.
死すべきものとして生まれてきた矛盾的本質に立ち帰ろう.その矛盾的な主体のみのわたしに立つことによって,ようやくわたしたちは“いのち”を学ぶべきものとなる.すべてはそこから始まるのだ.
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