撮影主義が帰ってくる
近ごろKONICA MINOLTAのDimage Scan Elite 5400 IIというフィルムスキャナーを購入した.いまさらフィルムスキャナーかと想われる方も多かろう.古い写真が大量にスライドボックスに入っているのだが,デジタルカメラを使い出して,映像データがデジタル化してしまうと,アナログデータを持ち出してプレゼンテーションしたり,作品加工したりするのが,億劫になってしまった.結局死蔵されることになったこの財産を,何とかデジタルベースで再利用したいと考えたのが表向きの理由.もう一つは,この頃,デジタルカメラにも倦んできて,アナログなフィルムカメラが懐かしくなってきたからである.
結果は,概ね良好.今回掲載する写真は,1980年暮から81年の年始にかけて南インドを訪ねた時のもので,すでに四半世紀前のものである.筆者がカラーポジを使い始めた最初の頃で,インド旅行は,これが3回目だった.撮影技術の未熟さや,ポジの退色は十分カバーしきれていないし,当時使っていたCanon A-1に付けられていたレンズは,FDレンズの汎用品で,近ごろの高度なコンピュータ設計と,繊細な工作技術で作られたレンズに比べれば,シャープネスもカラーバランスも,その差は歴然としている.当時でもLレンズを買えばそれなりだっただろうが,貧乏な頃故,購入対象に考えたことすらなかった.
しかし,作品そのものの味わいと力とは,十分に受容できるものだ.わたしたちは,デジタル化によって,便利になったとか,作業効率が上がったとか,質的な向上があったと,無批判に思い込んでいる.しかし,アナログな銀塩写真は,軽視に値する程,不効率なものだったのだろうか.古いスライドをスキャンして,多少のレタッチを施してプリントアウトしてみる.その写真を観察しながら,筆者はこの25年間に,何がどれほど進歩したのか(機材と撮影者という自分自身を含めて)という疑問が湧いてきた.
作業効率というのはどんな概念なんだろう.単に,一つの事を成し終えて結果を出すまでの時間だけなら,確かに作業効率は上がったと言えよう.しかし,わたしたち人間には,受け入れ可能な時間力というものがあるのではないだろうか.そのプロセスの一つ一つを確認しながら,また迷いながら,結論に収斂させていく最も適度な時間,それこそが真の作業効率というべきものではないか.今の効率化は,少なくとも筆者の時間力を超えていて,よい結果が出たとすれば,それは自分の意図によるものではなく,環境が生み出した偶然の産物でしかないのだ.偶然に確実に良い結論に出会えるように,わたしたちは大量の作品を用意し,選択の幅員を広げようとする.その結果,良いものが得られると同時に,大量の無駄が廃棄されていくのだ.
カメラ機材をデジタルに切り替えてすでに4年程が経つ.その間,日進月歩のデジタル技術の進捗に合わせて,大量の機材を売り買いしてきた.古いレンズが使えることが売り文句の大手メーカーのデジタル一眼レフも,撮像素子の大きさが35mmフィルムより小さいことによる画角の違いや,デジタルが要求する繊細な描画性能に合わせて,結局はデジタル専用レンズを買わざるを得なくなった.
それに,デジタルデータを加工するためのコンピュータも同様に変化が激しく,新しい高度なソフトを使うためには,それに見合った最新のシステムに買い替える必要がある.プリンターの技術革新もすさまじいもので,古いものはインクや使える紙が無くなってしまうので,買い替えが必要になる.
これだけ機材の置換が激しくなると,材質の質感は大いに低下する.1年程しか使わない使い捨て機材に,余分なお金をかける必要などないからだ.中には,「作品主義なんだから,作品を生み出すための機材に執着するなんてのはばかげたことだ」という者もいる.でも,いくら性能がよくなっても,筆者は使い捨てカメラや携帯電話のおまけカメラは使わない.軽量なプラスティックや紙で出来たカメラ,カメラとしての本性を失ったカメラを構えていると,悲しくなってくる.写真を観賞したり,その写真によって想い出を語ることがあっても,「写真を撮る」という行為そのものは無化されて,顧慮されることがなくなってしまうからだ.
皮肉なことだが,アナログをデジタルに加工するデジタル技術(フィルムスキャナー)を得て,アナログ写真への回帰が可能になった.フィルムはデジタルの撮像素子ほど融通の利かない要求はしないから,古くて個性的なレンズが十分に通用する.また,近年のコンピュータ解析技術によって高度に計算されたズームレンズではなく,職人が人間の勘をフル活用して作った,単焦点レンズという無理のない合理的なレンズも豊富だ.レンズとマウントのぶつかる金属の音や,布幕のアナログシャッターが醸し出す穏やかな響き.それに,固くて精度の高い冷たいボディーの感触を,もう一度楽しめそうだ.
人間は,経済的な効率に裏付けられた結果ではなく,考察し,悩み,判断する過程に生きている.流れ留まることのない時間軸の中で,それでも一瞬に執着し,その輝きを夢見るのが人間の常であろう.むしろ,何の思慮もなく生み出された大量の無駄という結果をこそ畏怖するのが,正常な精神性なのではないだろうか.
今や人間の尊厳は,悲しい程に等閑視されている.人間は輝く必要はない.物理的な結果の良否こそが大切にされるのである.もう一度人間を取り戻すために,わたしはシャッターを押さなくてはならない.作品を利用するのではなく,作品を生み出す楽しみ,撮影主義が帰ってくる.![]()
*最初の写真:ティルティラパリの寺院にいた賢人風の老人(1980年12月)
*二枚目の写真:ケープコモリンの海岸のドリンクバー(1981年1月)
*三枚目の写真:ブバネーシュワルの海岸で海を見つめる家族(1980年12月)
*四枚目の写真:コチンの裏通(1981年1月)
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コメント
先生ー!こんにちはー!
いつもお世話になってますー!!
私のブログに友達からミュージカルバトンというのが回ってきました。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/Musical%20Baton
お手数ですが、先生もよろしくお願いしますーー!!
投稿 てんが | 2005年6月26日 (日) 00時58分