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2005年5月24日 (火)

撮影主義が帰ってくる

wisemanintirthi 近ごろKONICA MINOLTAのDimage Scan Elite 5400 IIというフィルムスキャナーを購入した.いまさらフィルムスキャナーかと想われる方も多かろう.古い写真が大量にスライドボックスに入っているのだが,デジタルカメラを使い出して,映像データがデジタル化してしまうと,アナログデータを持ち出してプレゼンテーションしたり,作品加工したりするのが,億劫になってしまった.結局死蔵されることになったこの財産を,何とかデジタルベースで再利用したいと考えたのが表向きの理由.もう一つは,この頃,デジタルカメラにも倦んできて,アナログなフィルムカメラが懐かしくなってきたからである.
 結果は,概ね良好.今回掲載する写真は,1980年暮から81年の年始にかけて南インドを訪ねた時のもので,すでに四半世紀前のものである.筆者がカラーポジを使い始めた最初の頃で,インド旅行は,これが3回目だった.撮影技術の未熟さや,ポジの退色は十分カバーしきれていないし,当時使っていたCanon A-1に付けられていたレンズは,FDレンズの汎用品で,近ごろの高度なコンピュータ設計と,繊細な工作技術で作られたレンズに比べれば,シャープネスもカラーバランスも,その差は歴然としている.当時でもLレンズを買えばそれなりだっただろうが,貧乏な頃故,購入対象に考えたことすらなかった.
twilightincochin しかし,作品そのものの味わいと力とは,十分に受容できるものだ.わたしたちは,デジタル化によって,便利になったとか,作業効率が上がったとか,質的な向上があったと,無批判に思い込んでいる.しかし,アナログな銀塩写真は,軽視に値する程,不効率なものだったのだろうか.古いスライドをスキャンして,多少のレタッチを施してプリントアウトしてみる.その写真を観察しながら,筆者はこの25年間に,何がどれほど進歩したのか(機材と撮影者という自分自身を含めて)という疑問が湧いてきた.
 作業効率というのはどんな概念なんだろう.単に,一つの事を成し終えて結果を出すまでの時間だけなら,確かに作業効率は上がったと言えよう.しかし,わたしたち人間には,受け入れ可能な時間力というものがあるのではないだろうか.そのプロセスの一つ一つを確認しながら,また迷いながら,結論に収斂させていく最も適度な時間,それこそが真の作業効率というべきものではないか.今の効率化は,少なくとも筆者の時間力を超えていて,よい結果が出たとすれば,それは自分の意図によるものではなく,環境が生み出した偶然の産物でしかないのだ.偶然に確実に良い結論に出会えるように,わたしたちは大量の作品を用意し,選択の幅員を広げようとする.その結果,良いものが得られると同時に,大量の無駄が廃棄されていくのだ.
 カメラ機材をデジタルに切り替えてすでに4年程が経つ.その間,日進月歩のデジタル技術の進捗に合わせて,大量の機材を売り買いしてきた.古いレンズが使えることが売り文句の大手メーカーのデジタル一眼レフも,撮像素子の大きさが35mmフィルムより小さいことによる画角の違いや,デジタルが要求する繊細な描画性能に合わせて,結局はデジタル専用レンズを買わざるを得なくなった.
 それに,デジタルデータを加工するためのコンピュータも同様に変化が激しく,新しい高度なソフトを使うためには,それに見合った最新のシステムに買い替える必要がある.プリンターの技術革新もすさまじいもので,古いものはインクや使える紙が無くなってしまうので,買い替えが必要になる.
familyinbubhanes これだけ機材の置換が激しくなると,材質の質感は大いに低下する.1年程しか使わない使い捨て機材に,余分なお金をかける必要などないからだ.中には,「作品主義なんだから,作品を生み出すための機材に執着するなんてのはばかげたことだ」という者もいる.でも,いくら性能がよくなっても,筆者は使い捨てカメラや携帯電話のおまけカメラは使わない.軽量なプラスティックや紙で出来たカメラ,カメラとしての本性を失ったカメラを構えていると,悲しくなってくる.写真を観賞したり,その写真によって想い出を語ることがあっても,「写真を撮る」という行為そのものは無化されて,顧慮されることがなくなってしまうからだ.
 皮肉なことだが,アナログをデジタルに加工するデジタル技術(フィルムスキャナー)を得て,アナログ写真への回帰が可能になった.フィルムはデジタルの撮像素子ほど融通の利かない要求はしないから,古くて個性的なレンズが十分に通用する.また,近年のコンピュータ解析技術によって高度に計算されたズームレンズではなく,職人が人間の勘をフル活用して作った,単焦点レンズという無理のない合理的なレンズも豊富だ.レンズとマウントのぶつかる金属の音や,布幕のアナログシャッターが醸し出す穏やかな響き.それに,固くて精度の高い冷たいボディーの感触を,もう一度楽しめそうだ.
 人間は,経済的な効率に裏付けられた結果ではなく,考察し,悩み,判断する過程に生きている.流れ留まることのない時間軸の中で,それでも一瞬に執着し,その輝きを夢見るのが人間の常であろう.むしろ,何の思慮もなく生み出された大量の無駄という結果をこそ畏怖するのが,正常な精神性なのではないだろうか.
 今や人間の尊厳は,悲しい程に等閑視されている.人間は輝く必要はない.物理的な結果の良否こそが大切にされるのである.もう一度人間を取り戻すために,わたしはシャッターを押さなくてはならない.作品を利用するのではなく,作品を生み出す楽しみ,撮影主義が帰ってくる.
cochinbackyard
*最初の写真:ティルティラパリの寺院にいた賢人風の老人(1980年12月)
*二枚目の写真:ケープコモリンの海岸のドリンクバー(1981年1月)
*三枚目の写真:ブバネーシュワルの海岸で海を見つめる家族(1980年12月)
*四枚目の写真:コチンの裏通(1981年1月)

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2005年5月16日 (月)

綾戸智絵というカオス

PC260390  2005年5月14日(土).愛知県芸術劇場大ホールで行われた,綾戸智絵のConcert 2005に行ってきた.13,14,15の三日間,愛知県芸術劇場の一番大きな会場で行われたこのコンサートのチケットは,Sold Out.綾戸人気の大きさを物語っていた.
 コンサートは6時に開演.最初の二曲は,ジャズのコンサートらしく,質素でハイセンスな照明が施されたステージに,グランドピアノを置いただけのそっけない演出で,じっくり聴かせる仕組みだった.
 ところが,二曲を終えて,ピアノ椅子から綾戸が立ち上がるや,会場のムードは一変した.それはまるで漫談か軽妙なトークショーを聴いているようで,会場のわたしたちは腹を抱えて笑い転げることになった.その勢いは尋常なものではなく,息苦しくて痙攣しそうになった.
 しかし,話の内容は,決して浮薄なものではない.わたしは,時に,哲学者や宗教家の話を聴いているような錯覚に落ちた.さらに,話を終えて,一度,ピアノの前に座ると,彼女は見事なジャズピアニスト,ジャズシンガーに変身するのだった.
 ジャズという一件日本人の精神性からは遠い音楽,高度な演奏技術,渡米の経験,死につながる病の克服といった現実と,あの大阪のオバチャンのような話し口や精神性.この人の内と外はどうやってバランスをとっているのだろう.どこに綾戸のアイデンティティーを見ればいいのだろう.わたしたちが,ステレオタイプな視点で感じている,アメリカ帰りのジャズミュージシャンはそこにはいない.だが,そこに存在する,どうみても大阪のオバチャンでしかない女性は,まぎれもなく一流のジャズアーティストなのである.
 もともとジャズは,故国を失ってアメリカに連れてこられた奴隷たちが,解放の後に,苦しい生活の中で,自由な表現方法を求めて生み出した音楽だという.それは,貴族やインテリのスノビッシュな仕業ではないのだ.単身渡米し,結婚・出産・離婚,そして病気と,いくつもの山溪を通り抜けてきた大阪のオバチャンにこそ相応しい音楽であったに違いない.Concert 2005では,誰もが知っている有名な楽曲が演奏されたが,実際には,誰も経験したことのない音の響きが,ホールに漂っていた.ひょっとするとそれは,綾戸自身,初めて出遭った音であったかもしれない.
 コンサートの後半で,綾戸は家族のことを語った.大正生まれのお母さん,昭和生まれの綾戸,そして平成生まれの息子の三世代が暮らす家に,近ごろ共通の話題ができたという.世代の異なるばらばらの関係性に通底する共通のテーマによって,彼らは食卓に集う時間を楽しみにするようになった,と綾戸はうれしそうに話す.
 しばらく間があった.
 「その話題はね,葬式のことなんですよ」
オーディエンスはちょっと呆気にとられている.そこで,綾戸は例の軽妙な語り口で,80を越える母親がその一番身近な話題の対象であり,彼女の葬式の方法が主たるテーマになっていること.しかし,しばしば母親が,そうはいっても,一番最初に葬式を迎えるのは,綾戸や孫であるかもしれないと切り返してくるエピソードを披露した.そして最後に綾戸はこんなふうに締めくくった.
 「葬式の話ができるのは,みんな生きているからなんですね.死について考えると生きていることが分かってくる」
 彼女は,「死」が全てを根源的に解決するその瞬間まで,ただ一人の「わたし」として生き,歌い続けるのだろう.どこに停泊することもなく,立派な栖を創ることもなく,その存在はカオスであり続ける.カオスこそが自由を保障し,彼女がジャズミュージシャンであることを証ししているように想えた.
 だれにも教えてもらえない,経験則の働かないただ一度の人生を,安易に模造することなく,正体の定まらないただ一人の「わたし」として生きている小さな体の女性.綾戸の立ち姿は,本当に凛として,美しかった.

*コンサートの写真を撮ることはできません.また,綾戸さんの肖像を勝手に使うわけにはいかないので,今回の写真はインドのものです.どうしてこの話題にインドの写真かといえば,「カオス」繋がりです.ちょっと安易でしたでしょうか.
 この写真は,2005年12月にインドのPuneで撮りました.Pujaの夜に,街の中心にやってきた若い家族の風景です.

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2005年5月 2日 (月)

「詐欺フェスタぎふ2005」に行ってきた

hanafesta01 黄金週間の混雑の中,よせばよいのに,岐阜県可児市で開催中の「花フェスタ岐阜2005」に行ってきた.この催しは,1990年から始まった「花の都ぎふ」運動の15周年を記念して,「花フェスタ記念公園」で104日間にわたって,開催されているものだ.(そもそも,1995年に「花フェスタ」が開催されており,その縁で「花フェスタ記念公園」と名乗っているのに,そこでまた「花フェスタ」が行われるというのは,構造的に矛盾している.しかもこの「花フェスタ」は,2004年にも開かれていて,近ごろ定例化してきている)
 さて,道路公団の改革が厳しく叫ばれる中,どこ吹く風で.近ごろ華々しく開通した東海環状自動車道(この道は,この周辺では「MAGロード」と呼ばれている.三重(M),愛知(A),岐阜(G)をやがては環状に結ぶ予定なので,MAGなんだそうだ)を使って,「可児・御嵩インター」を降りる.
 このあたりからいらいらが始まる.高速料金支払用ブースは三つ,その内,真ん中の一つはETC専用.このあたりではETCの普及率は低く,ここを通過する車はほとんど無い.まだ開園までには30分以上ある9時前だというのに,残った二つの料金所の前には,支払い待ちの車が長蛇の列をなしている.近ごろ,ETCを早く導入しろといわんばかりに,料金所のお金のやり取りがやたらと遅くなったように思う.一万円でおつりでも貰おうものなら,下手をすれば,カーステレオの音楽が1曲終わりそうになる.ETCの普及がおぼつかないのは,道路公団の志しの低さに起因する.だいたい,どこの世界に,支払者がレジ機器を購入するなんて法則が通用するんだろう.最近あまりの評判の悪さに,導入コストと,導入後の支払い値引きを始めたが,そもそも,あんなに大袈裟な三菱製の機械を,膨大な金をかけて全国にばらまく必要があったのだろうか.シンガポールやニューヨークではもっとスマートにやっているのに.
 ようやく料金所を通過して,会場に向かうと,途中で道を遮られ「センゾー駐車場」という砂利でできた,いかにも仮設の駐車場に誘導された.わたしは誘導者に「会場の駐車場には入れないのか」と尋ねたが,初老の警備服を着た男は,「満車だ」と明確に答えた.実際には,そこからシャトルバスで会場に着くと,まだ記念公園の駐車場には十分空席があり,駐車場に入るのに,特に混雑している様子もなかった.早い話がだまされたわけだ.hanafesta02
 さて,バスを降りたらすぐにしなくてはならないことがある.今回この公園に,混雑が予想される時期にやってきた最大の理由は,会場内の「プリンセスホール雅」で午前午後に二回おこなわれるNHKのわくわくさんの「つくってあそぼうショー」を子供たちが見たいというからだ.開園前に到着しようと試みたのは,800人収容のこのホールへの入場整理券を獲得するためだった.バスを降りて案内マイクの聞こえる方に走ったが,どうやら寸でのところで入場整理券は無くなったらしい.これではここに来た意味がない.そもそも駐車場の誘導員にだまされなければ,もっと早く会場に来れただろうし,その前の料金所がもう少しテキパキと仕事をこなしてくれていたら,状況が変わってきたかもしれない.
 わたしはばかばかしくなって,会場に入ることを止めて帰ることを家族に提案した(ちなみに前売券を買って来ている)が,子供はどうしても見たいという.しかし彼らには,整理券がすでに無いことを理解させなくてはならない.(実際には,会場には結構な数の空席があった.それでもわたしたちは会場に入れてもらえなかった.どうも整理券の配付方法自体,不可解だ.)そんなわけで議論をしていると,ボランティア係員が,「そこに立ち止まらないで先に行って」と無情な言い口.わたしたちは特に通行を妨げていたわけではないし,その場所はそもそも入場前に切符を買ったり,人と待ち合わせをする所である.ここのスタッフは,やって来た人たちがどんな状況を抱え,何に困っているかをフレキシブルに理解するホスピタリティにかける.数だけはやたらと多い係員は,迷子案内と立ち入り禁止区域への立ち入りの制止,それに,道案内,といった,マニュアルにある仕事を,強引にマニュアル通りに行うことしか念頭にない.
  仕方なく,子供には会場の外からショーの様子を眺めることを納得させ,せめて花を楽しもうと中に入った.するとどうしたことだ.「花フェスタ」なのに花が無いのだ.この公園の売り物は薔薇園なのだが,薔薇は5月下旬(ちなみにこのフェスタは,3月1日に始まっていて,6月12日には終わる)にならないと咲かないのだという.薔薇園には驚くほど薔薇がない.時期が来れば,薔薇が,イギリス庭園風に飾られるだろうことを思わせる鉄製のアーチや,階段や廊下まわりの木の柵は,見事に剥き出しになっていて,茎さえ見当たらないありさまなのだ.来場者は,後2週間すれば,ここに美しい薔薇の花が持ち込まれ,みごとな彩りの薔薇園ができ上がることを空想して楽しむしか手は無い.それでも,わたしよりは遥かに心優しい彼らは,「これだけの広さの所に薔薇が咲き乱れたらさぞ美しいでしょうね.もう少し後に来なくてはいけなかったわね」などと,しかるべき時節に来なかった自分たちを戒めるのだ.
 いま咲いているものといえば,通路脇に街路花として咲かせてあるレンゲやパンジー程度のもの.たまにきれいな花壇があったりすると,それは協賛している農業高校や地元の銀行や企業の労作であって,花フェスタ主催者の努力によるものではない.(水撒き以外,この会場で草木の手入れをしている人を見かけないのが不思議だ)hanafesta03
 この会場で力が入っているのは,地元特産の食品の販売.飛騨牛のコロッケや高山ラーメン,イワナの塩焼きなどを売る店が軒をつらね,それでも昼食時には,キャパを越えて入れ込み過ぎた観客が長蛇の列をなすありさまだ.花より団子を地でいくこの行事,「花の都ぎふ」はいったいどこへ行ったんだ.これなら,無料で入れる「木曽三川公園」(岐阜県海津市)の花畑の方がよほど素晴らしい.木曾三川公園の「チューリップ祭」の時には,スタッフは本当に努力して,期間中びっしりとチューリップを咲かせ,維持している.
 「花フェスタぎふ2005」のHPには,「「花」に関する取り組みが盛んな岐阜県のさまざまな魅力が詰まっています」と説明されているが,「「花」に関する取り組み」はすっかり忘れられ,「岐阜県のさまざまな魅力」が拡大解釈されて,種々のイベント事に執心しているように思えた.
 近ごろ,なんでも「イベント化」してしまう傾向がある.催しものは,観客の入れ込み数でしかその成否を判断しないし,来客も,「イベント化」に慣れきってしまい,「主旨」や「目的」よりも「イベント」の魅力にしか反応しなくなっている.わたしは大学に職を得ているが,学生の主催する学園祭もいまやイベント化の傾向が著しい.実行委員会は,プロモーターの持ち込んでくる,学園祭向けのコンサート企画を買い取るだけで,自分たちの大学の学園祭の「意図」を議論したり,その内容を企画に反映させたりすることが少なくなった.心のこもらない空疎な企画だけが独り歩きして,評価は,観客数という数量によって判断される.人間は,みずから「意図」を持ち,「企画」し,「実践」するものであることをすっかり忘れてしまったようだ.
 いずれにしても,「花」をテーマにしながら,「花」のない「花フェスタぎふ2005」は「詐欺フェスタぎふ2005」と呼ばざるを得ない.テーマに相応しい表現方法や,観客へのホスピタリティを,もっと率直に正直に探求すべきではないだろうか.

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2005年5月 1日 (日)

カフェ・サンライズ

cafesunrise ここ数年,毎年年末にインドのプネーを訪れている.この街は,インド人の辭を借りれば,「インドのオックスフォード」なんだそうだ.インドでも一流レベルのPune Universityを中心として,街には,CollegeやPolytechnical schoolが散らばっている.学生や研究者の数も多く,知的レベルは高い.Bandarkar Road,  Bapad Roadなど有名な学者の名を冠した街路 もたくさんある.
 知的なレベルが高いと,料理も美味しくなる.Ferguson College RoadのRoopaliのターリーやM. G. Roadの筋違いにあるGeorge Restaurantのタンドール料理は絶品である.
  ちかごろ成長著しいインドの中でも,silicon valleyを気取るこの街は,IT産業の勢いに乗って,特に変化が激しい.行く度にビルが修復され,店の構えや看板は新しくなっている.知的レベルの高さが手伝って,そのスタイルはお洒落なものである.
 昨年の12月に訪れた時,J. M. Roadの端,Cityの手前のバスターミナル付近に新しいカフェを見つけた.その名をCafé Sunriseという.何となく1950-60年代のモダンジャズ隆盛の時代のカフェを思わせるその作りは,懐かしくもあり,しかし今では新鮮でもあった.雑然として散漫でありながら,全体を見れば,なにがしの統一性を持っているように思える,不思議なプネーの町並み.意図があるのか無いのか分からない未分明な世界に,この時空の定まらない空間はよくフィットしている.単純な時間軸や空間論の成り立たないこの街で,このカフェの椅子に座って,苦くて甘いコーヒーを楽しむ時間は心地よいものだった.

 2005年12月26日.スマトラ島沖に発生した地震は,大津波を引起し,歴史上類を見ないほどの大被害を周辺地域にもたらした.インドでも,タミールナドゥやアーンドラプラデーシュあたりで,大きな被害が出て,多くの方が犠牲になった.
puja  この地震と津波のことを,わたしは,翌朝,新聞を読むまで知らなかった.その夜,わたしは友人と街に食事に出かけ,久しぶりにビールを飲んだ.Ferguson Collegeの向かいにあるAkash Plaza Sunson HotelのRestaurantで,美味しいnon-vegetarian 料理を食べて,良い気分になっていた.街もまた,どなたかの神様のプージャの日で,祠の周りに電飾が施されて,遅い時間まで参拝者がひっきりなく訪れ,プージャを終えて安心した家族は,やはり街のレストランで食事を楽しんでいた.
 プネーは,被害のあった海岸とは反対側の西部にあるし,街そのものも標高の高い所にある.揺れが来たわけでもなかったし,まさかインドにそうした災害があろうとは予想だにしていなかった.翌朝お会いしたPune UniversityのDepertment of SanskritのDr. Shailaja Bapat(専門はVedanta哲学)も,驚きを隠さなかった.彼女は,自分の生涯はおろか,歴史的にもこうした被害を知らない,という.決して無いわけではなく,2〜300年に一度位はこれに類する被害はあったようだが,これほどの被害は見当たらないようだ.TSUNAMIという言葉自体が日本語をそのまま流用しているほど,彼らの潜在印象の経験値は低い.
  Dr. Shailaja Bapatは「そういえば…..」といって,記憶をたどるようにうつむくと,「Mahabharataのどこかにこれに類する事件の記述がある.それは伝説的な物語に過ぎないと思っていた」と,いつものように小さな声でつぶやいた.ここではLegend(伝説)さえも時空を越えて,現実となるのである.

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